山下達郎やデヴィ夫人にもいちゃもんをつけた、ジャニーズ憎しの「ジャニーガー」たちがそれを「忖度」だと思い込む理由【宝泉薫】
実際、20年ほど前に「週刊文春」の関連記事をジャニーズ事務所が名誉毀損だと訴えた裁判でも、判決はビミョーな落としどころになった。わかりやすくいえば、セクハラと思われる事実も一部認定されたが、文春も損害賠償金を支払ったというかたちだ。
にもかかわらず、ジャニーズ憎しの人たちはそこを都合よく拡大解釈。セクハラの事実が認定されたのだから、もっといろいろ悪いことをやらかしていたのだろうなどと想像して叩き続けている。
また、彼らの根底にあるものは個人的な好き嫌いの感情でしかない。要は、ジャニーやジャニーズ事務所のような存在が気に入らないのだ。
その個人的感情を世の中的な善悪論にすりかえる際、彼らは主語を大きくしたがる。たとえば、この騒動でジャニーズ叩きの急先鋒となっている松谷創一郎という人はこんなコメントをしていた。
「ジャニーズとしてはファンが一番怖い。会社側はそこに甘えてもいるし、ファンもいいと思っている。社会はこれでよしとしません」
いやいや、あなたがよしとしないだけだろう、と思わずツッコんでしまったが、こういうのは昔からある手口だ。太宰治の小説「人間失格」にも「これ以上は、世間が、ゆるさないからな」と言われた主人公が、
「世間というのは、君じゃないか」
と気づく場面があったりする。つまり、こういうのは「強者のフリをした論理」であり「強者の論理」よりもよっぽど卑怯だともいえる。
一方、筆者は善悪にあまり興味がない。この騒動についても、最大の当事者であるジャニーはすでに故人だし、前述した存命中の裁判でもビミョーな結果となった。当事者や関係者たちの意見もさまざまで、もはや善悪を決めるのは無理だろう。
納得できない人は今のジャニーズ事務所を訴えるなどすればいいし、あとはもう、好き嫌いだけで語っていい話なのだ。おそらく、山下やデヴィもそれに近いスタンスなのではないか。好きなものを好きだといい、できれば守りたいというだけに見える。